2007年03月30日

第4次中東戦争

1970年、ナセルが死去してサダトが新しいエジプトの指導者となる。

サダトはシリアと組んでイスラエルへの反撃戦を展開する。
これが第4次中東戦争である。

石油戦略でイスラエルに勝利したサダトは軍とテクノラートに依存し、外資を導入して親米路線へ進む。

こうして1977年、米カーターの仲介によってイスラエル、ペギン首相と和解して国交正常化。

79年エジプト・イスラエル平和条約が締結された。

アラブ諸国はエジプトを裏切り国家として敵対視。直ちに国交を断絶した。

そんななか、サダトは暗殺され、
エジプトにはムバラクが政権を握ると、

対ソ、アラブ関係を修繕し、イスラエルからはシナイ半島を奪還する。
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第3次中東戦争

第2次中東戦争で力をつけたエジプト含むアラブ諸国家。

イスラエルは彼らに対して大きな恐怖を覚えていた。
そこへアラブ国家がイスラエル統一戦線を組んだ。

イスラエル「やられるまえに、やるしかねえ」


イスラエルはエジプトに対して突如攻撃を仕掛ける電撃戦を展開。ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、イェルサレム旧市街、ゴラン高原、シナイ半島をGetした。

これにより、ナセルの権威は失墜。
欧州と仲良くしていたサウジアラビアやクウェートなどの王権勢力が台頭し、OAPECを結成した。

民族主義の力も弱まり、パレスチナの解放はパレスチナ人自身で行われるべきだいう機運が高まった。

そして、アラファト指導体制のパレスチナ解放機構(PLO)が1968年に組織された。
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2007年03月29日

第2次中東戦争

第1次中東戦争の敗北によって、
アラブ諸国家はより強力な民族主義運動が必要だと悟る。

そんな折、エジプトではナセルを中心にして、欧州と手を組んだ王権勢力を排除することに成功していた。
ナセルは冷戦構造から影響を受けない、中立の立場を貫こうとしたが、アメリカはエジプトに対してMETOに入るように強要してきた。

ナセル・エジプト「我々は中立の国だ。バグダード条約機構に参加する国々から武器を買うつもりはない。チェコから買う。」

米国、英国「なんだと!そっちがその気なら、アスワン=ハイダムを作るお金の援助はやめさせてもらう。」

ナセル・エジプト「こっちは中立を貫きたいだけなのになぜそういう話になるんだ!」

米英「問答無用、いやならMETOに入れ。武器を買え。」

ナセル「じゃ、いいよ。スエズ運河会社をエジプトの国有にして資金は捻出するから。」

英、仏、イスラエル「??」
  「それじゃあ、うちらの石油が手に入りにくくなるじゃんか」

英、仏、イスラエル「米さん、エジプトむかつく。」
「やっちまいましょう」

こうして第2次中東戦争が始まった。

調停組織として機能するはずの国連はイギリスとフランスの拒否権発動のため機能せず。

アジア・アフリカはエジプトを支持。
国際世論は完全にエジプトよりとなる。
そうすると、米ソは英仏に武力行使をやめるように圧力をかける。

英仏は仕方なく戦争をやめる。

こうして戦争に勝利したエジプトのナセルは急激に評価を高めた。そして、アラブ諸国家による民族戦線も活気を帯びていった。

だが、ダムのお金をめぐる憎しみは消えず、エジプトは大企業の国有化を進め、ソ連へと近づいていく。

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2007年03月12日

甲斐源氏の勃興

清和天皇の血を引く清和源氏、源頼信が甲斐守に就任し、活躍したことで甲斐源氏が定住する素地が出来上がった。

実際に一族が甲斐に土着するのはひ孫、義清と息子清光の代からであった。彼らの子孫は甲府盆地へ広がり、その土地名を氏姓として名乗った。

代表的な人物は
北巨摩〜甲府の武田信義
山梨郡の安田義定
西郡の加賀美遠光
である。

彼ら甲斐源氏は後に鎌倉幕府を開く源頼朝にとって頼るべき存在であった。しかし、平氏を打倒し、幕府を構成していく過程で甲斐源氏を抹殺したのも頼朝だった。

生き残ったのは頼朝が愛すべき人物と評した石和信清、遠光公の子孫、小笠原長清だった。2人は甲斐源氏の中核として鎌倉初期を生き抜いた。そして、戦国時代に勝頼が滅ぼされるまで一つの一族が治めた稀有な国甲斐を支える礎を築いた。

武田氏は小笠原一族の信州進出にはじまり、広島、徳島、大阪、山口など全国的に勢力を拡張し、土着し、発展していった。

とりわけ安芸、広島の信時流武田信武の勢力は凄まじく、甲斐の石和氏と勢力を2分するほどの力を誇っていた。

足利尊氏が征夷大将軍となるべく北朝を作り出し、南北朝時代が到来すると、両武田一族はともに北朝側についたが、内部の勢力争いによって石和氏が南朝側にねがえる。結果、石和政義は戦死。

以後、安芸の信時流が甲斐の国を席巻していく。


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荘園成立と武士の台頭

中国の律令体制が飛鳥時代に流入し、公地公民制となった日本。
だが、生活の安定は人口の増加を促し、口分田が不足していく。

朝廷は開拓した土地は孫の代まで保障するという三世一身法を制定したが、割に合わないため当然開拓は進まない。

仕方なく、開拓地を永久的に開拓者のものとする墾田永年私財法を制定した。そして、この決断は後の日本の行方を決定付けた。

こうして開拓され、私財化した土地を荘園と呼ぶ。

荘園を手にしたはいいが、弱肉強食の時代、土地を守れない者たちは有力貴族や寺院に土地を寄進していった。
年貢を納める一方で、生活を保障される荘管として生きる道を選んだのである。

貴族や寺院では不輸不入の権で朝廷から自分たちの荘園から年貢を納めなくて良いことになっていたから、藤原氏ら貴族の力はメキメキと発達していき、逆に収入源を失った朝廷は衰えていった。

政府の力が衰えると、取締りの力も落ちるため、治安が悪化する。だから、自警団のような自前の警備隊が必要になる。こうして、腕っ節の強い男たちを中心に武士になる者が出現した。
その際たる例が源氏であり、平氏であった。

山梨県で初の荘園は10C初頭の市河荘。甲斐源氏が最初に拠点とした荘園である。

朝廷側もこのような状態に手をこまねいていただけではなく、国司を通じてあらゆる手段を用いて不輸不入を喝破しようと試みた。荘園と朝廷の対立は次第に泥沼化し、ガードマンとしての武士の地位は飛躍的に向上していった。
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2007年03月05日

飛鳥時代の山梨

時は紀元前、弥生時代の日本に遡る。
永遠の命を願う秦の始皇帝が、日本の蓬莱山を目指して斉の徐福を日本へ遣わした。

徐福は3000人の若い男女を引き連れ、中国の進んだ製紙、織物の技術や学問を西日本へと持ち込んだ。
これによって、後世の日本における西日本の優位が確定した。邪馬台国の繁栄も徐福の来日あってこそだった。

飛鳥時代に入っても西国の優位は続く。
大王を中心に蘇我氏、物部氏らの豪族たちが実権を握り、しのぎを削りながら、その勢力を増していった。

仏教信奉への対立から物部氏を排除し、政治の実権を握った蘇我氏だったが、横暴が過ぎ、仲間だった聖徳太子に見限られ、画期的登用制度であった冠位12階の権力構造からも排除される。

聖徳太子の死後、蘇我の勢力は復活するが、蘇我はここで恨みを果たすとばかりに聖徳太子の血を継ぐものを虐殺していった。

すると今度は唐へ留学していた新知識人、中大兄皇子、中臣鎌足が高句麗、百済のクーデターの影響を受けて蘇我入鹿を抹殺。

日本版クーデターである大化の改新を開始したのである。

大化の改新は中国の律令制度を見本にして大和朝廷を中心にした中央集権国家を樹立することを目標とした。

まずは土地や人民は全て国のものであるという公地公民を宣言。
口分田という耕作地を人民一人に与え、死ぬまで劣悪なノルマの下で耕し続け、死んだら土地を返すという班田収受法を施行した。

さらに租庸調という重い税を課し、それらを各地わけ隔てなく実行するために国郡理制の整備に取り掛かった。

山梨の原型が作られたのはまさにこのときで、現在もほぼ当時の強引な国境分割に基づいた形を維持している。
甲府盆地を中心にした国中、静岡や神奈川との結びつきの強い郡内という全く異なる文化圏が共存するのは民俗など気にもかけない大和朝廷の国境分割方法に由来するのである。

そして、国の形が定まると、郡の整備に取り掛かった。
663年に白村江の戦いに敗れ去った大和朝廷は唐の反撃を恐れて大津へ遷都して天智天皇となった。
白村江の戦いでは日本は指揮系統が全く機能せず、各豪族たちが好き勝手に行動したために敗れ去った。その事実は豪族たちの国防意識を高め、中央集権国家の必要性を痛感させるのに十分なものだった。

郡の整備のスピードも格段に向上したものと想像される。
日本の戦友国であった百済からは多くの難民が日本へと逃れ、首都大津を経て遠く山梨へもやってきた。

巨麻郡、山梨郡、八代郡、都留郡に分けられた甲斐国にはその難民受け入れの名残ともいえる郡が存在するのだ。

巨麻郡である。
巨麻は高麗の意味で、716年に甲斐などの高麗人1799人を集めて武蔵に高麗郡を作ったという記述、そして、甲斐の巨麻郡はそれよりも大規模であったという事実から、西山梨に住む人々の多くは白村江の戦いで敗れた百済の血を引いている可能性が高いといえるだろう。

とはいえ、日本はそもそも黒髪、黄色人種が主流とはいえ、元をたどれば完全な移民混血の国。鎖国による錯覚が続いたのが難とはいえ、今になってそんなに気にすることもないんだろうけど。

東北の色白美人には完全に白人の血が流れているということで、ルーツを探ってみるといろいろ面白いことも見えてくる。
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2007年03月03日

FTA FTA FTAの動き

FTA(Free Trade Agreement)
自由貿易協定はWTO(世界貿易機構)の加盟国が149カ国と増えすぎて、利害関係の折衝が困難になったことから、新たな自由貿易の理念として登場した。

実質的には各国間でEPA(Economic Partnership Agreement)を結び、労働力、輸出入、海外投資、経済協力が円滑に行えるようにする。そして、その積み重ねがFTAというになる。

日本は01年のシンガポールを皮切りに04年にメキシコ、06年にマレーシア、フィリピン、タイとEPAを結び、今後は韓国やASEAN諸国との締結を目指して交渉を続けていく。

最終的には「東アジアEPA構想」に基づいてEU、NAFTAと世界を3分するFTAの構築が目標となる。

そんな中、メキシコは3大商圏とFTA関係を結んでおり、今後世界の自由通商の拠点として発展する可能性を秘めている。
posted by さわ at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

市町村合併のまとめ

北杜市
長坂、高根、白州、須玉、大泉、明野、武川、小淵沢)
南アルプス市
(芦安、白根、櫛形、若草、甲西、八田)
笛吹市
(春日居、石和、一宮、八代、境川、御坂)
中央市
(田富、玉穂、豊富)
甲斐市
(竜王、敷島、双葉)
市川三郷町

(市川大門、三珠、六郷)
山梨市

(山梨、牧丘、三富)
甲州市3

(塩山、勝沼、大和)

上野原市

(上野原、秋山)
富士河口湖町
(河口湖、足和田、勝山、上九一色)
身延町
(身延、下部、中富)
甲府市

(甲府、中道、上九一色)
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山梨の古墳時代

弥生時代に登場した山梨県の首長たち。
彼らは奈良盆地を中心に栄えたとされる邪馬台国=畿内王権の当方進出の基地的役割を果たしている。

これは現在の米国の朝鮮戦争時における日本の役割に似ている。

また、長野、山梨の一帯は名馬の産地としても知られていて、中でも「甲斐の黒駒」は有名で、この時代から続いた馬の産地としてのノウハウは後の武田騎馬隊などに見られる騎馬文化形成にも大きな影響を与えていたと考えられている。

畿内王権と結んで勢力を強大化した首長たちはその権力を誇示するように曾根丘陵に古墳を建設し、時を経るごとに徐々に外へと広がっていった。

代表的な古墳は
4C中期 小平沢古墳(県内唯一の前方後方墳)
4C後期 大丸山古墳、銚子塚古墳(前方後円墳)
5C   天神山古墳


5Cころからは曾根丘陵近辺にも古墳の建造が伝播。
古墳時代末期には県内全般の生産力が向上し、古墳の乱立が起こったため、古墳が権力の象徴と呼べる時代は終わりを迎えた。
posted by さわ at 13:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 山梨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

山梨の縄文弥生時代

縄文時代に差し掛かる頃には気候も温暖となり、果物や食獣が繁殖。さらに土器が発明されて食糧保存が可能になると、人々の生活は一気に安定し、定住もできるようになった。

しかし、盆地内部での定住の痕跡は発見されておらず、定住地域は県境に集中していることから、この時代も運搬の中継地としての性格が色濃く表れている。

県内最古の土器は北杜市明野町の神取遺跡から出土。
代表的な遺跡には甲州市勝沼町、笛吹市一宮町にまたがる大型遺跡、釈迦堂遺跡群がある。

稲作文化が始まったとされる弥生時代。
代表的な遺跡は韮崎市の中道遺跡で、籾痕のある土器が出土したことから稲作の伝播状況を考える上で重要な役割を担っている。

この時代になると、釜無川沿いの盆地底部にはじめて定住的集落が誕生する。甲斐市敷島町の金の尾遺跡では周溝墓が発見された。これらは大きさによって墓の主の権力の大きさを表す性格があり、いよいよ首長が登場したことを示している。
posted by さわ at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 山梨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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