2007年03月12日

甲斐源氏の勃興

清和天皇の血を引く清和源氏、源頼信が甲斐守に就任し、活躍したことで甲斐源氏が定住する素地が出来上がった。

実際に一族が甲斐に土着するのはひ孫、義清と息子清光の代からであった。彼らの子孫は甲府盆地へ広がり、その土地名を氏姓として名乗った。

代表的な人物は
北巨摩〜甲府の武田信義
山梨郡の安田義定
西郡の加賀美遠光
である。

彼ら甲斐源氏は後に鎌倉幕府を開く源頼朝にとって頼るべき存在であった。しかし、平氏を打倒し、幕府を構成していく過程で甲斐源氏を抹殺したのも頼朝だった。

生き残ったのは頼朝が愛すべき人物と評した石和信清、遠光公の子孫、小笠原長清だった。2人は甲斐源氏の中核として鎌倉初期を生き抜いた。そして、戦国時代に勝頼が滅ぼされるまで一つの一族が治めた稀有な国甲斐を支える礎を築いた。

武田氏は小笠原一族の信州進出にはじまり、広島、徳島、大阪、山口など全国的に勢力を拡張し、土着し、発展していった。

とりわけ安芸、広島の信時流武田信武の勢力は凄まじく、甲斐の石和氏と勢力を2分するほどの力を誇っていた。

足利尊氏が征夷大将軍となるべく北朝を作り出し、南北朝時代が到来すると、両武田一族はともに北朝側についたが、内部の勢力争いによって石和氏が南朝側にねがえる。結果、石和政義は戦死。

以後、安芸の信時流が甲斐の国を席巻していく。


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荘園成立と武士の台頭

中国の律令体制が飛鳥時代に流入し、公地公民制となった日本。
だが、生活の安定は人口の増加を促し、口分田が不足していく。

朝廷は開拓した土地は孫の代まで保障するという三世一身法を制定したが、割に合わないため当然開拓は進まない。

仕方なく、開拓地を永久的に開拓者のものとする墾田永年私財法を制定した。そして、この決断は後の日本の行方を決定付けた。

こうして開拓され、私財化した土地を荘園と呼ぶ。

荘園を手にしたはいいが、弱肉強食の時代、土地を守れない者たちは有力貴族や寺院に土地を寄進していった。
年貢を納める一方で、生活を保障される荘管として生きる道を選んだのである。

貴族や寺院では不輸不入の権で朝廷から自分たちの荘園から年貢を納めなくて良いことになっていたから、藤原氏ら貴族の力はメキメキと発達していき、逆に収入源を失った朝廷は衰えていった。

政府の力が衰えると、取締りの力も落ちるため、治安が悪化する。だから、自警団のような自前の警備隊が必要になる。こうして、腕っ節の強い男たちを中心に武士になる者が出現した。
その際たる例が源氏であり、平氏であった。

山梨県で初の荘園は10C初頭の市河荘。甲斐源氏が最初に拠点とした荘園である。

朝廷側もこのような状態に手をこまねいていただけではなく、国司を通じてあらゆる手段を用いて不輸不入を喝破しようと試みた。荘園と朝廷の対立は次第に泥沼化し、ガードマンとしての武士の地位は飛躍的に向上していった。
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