2007年03月05日

飛鳥時代の山梨

時は紀元前、弥生時代の日本に遡る。
永遠の命を願う秦の始皇帝が、日本の蓬莱山を目指して斉の徐福を日本へ遣わした。

徐福は3000人の若い男女を引き連れ、中国の進んだ製紙、織物の技術や学問を西日本へと持ち込んだ。
これによって、後世の日本における西日本の優位が確定した。邪馬台国の繁栄も徐福の来日あってこそだった。

飛鳥時代に入っても西国の優位は続く。
大王を中心に蘇我氏、物部氏らの豪族たちが実権を握り、しのぎを削りながら、その勢力を増していった。

仏教信奉への対立から物部氏を排除し、政治の実権を握った蘇我氏だったが、横暴が過ぎ、仲間だった聖徳太子に見限られ、画期的登用制度であった冠位12階の権力構造からも排除される。

聖徳太子の死後、蘇我の勢力は復活するが、蘇我はここで恨みを果たすとばかりに聖徳太子の血を継ぐものを虐殺していった。

すると今度は唐へ留学していた新知識人、中大兄皇子、中臣鎌足が高句麗、百済のクーデターの影響を受けて蘇我入鹿を抹殺。

日本版クーデターである大化の改新を開始したのである。

大化の改新は中国の律令制度を見本にして大和朝廷を中心にした中央集権国家を樹立することを目標とした。

まずは土地や人民は全て国のものであるという公地公民を宣言。
口分田という耕作地を人民一人に与え、死ぬまで劣悪なノルマの下で耕し続け、死んだら土地を返すという班田収受法を施行した。

さらに租庸調という重い税を課し、それらを各地わけ隔てなく実行するために国郡理制の整備に取り掛かった。

山梨の原型が作られたのはまさにこのときで、現在もほぼ当時の強引な国境分割に基づいた形を維持している。
甲府盆地を中心にした国中、静岡や神奈川との結びつきの強い郡内という全く異なる文化圏が共存するのは民俗など気にもかけない大和朝廷の国境分割方法に由来するのである。

そして、国の形が定まると、郡の整備に取り掛かった。
663年に白村江の戦いに敗れ去った大和朝廷は唐の反撃を恐れて大津へ遷都して天智天皇となった。
白村江の戦いでは日本は指揮系統が全く機能せず、各豪族たちが好き勝手に行動したために敗れ去った。その事実は豪族たちの国防意識を高め、中央集権国家の必要性を痛感させるのに十分なものだった。

郡の整備のスピードも格段に向上したものと想像される。
日本の戦友国であった百済からは多くの難民が日本へと逃れ、首都大津を経て遠く山梨へもやってきた。

巨麻郡、山梨郡、八代郡、都留郡に分けられた甲斐国にはその難民受け入れの名残ともいえる郡が存在するのだ。

巨麻郡である。
巨麻は高麗の意味で、716年に甲斐などの高麗人1799人を集めて武蔵に高麗郡を作ったという記述、そして、甲斐の巨麻郡はそれよりも大規模であったという事実から、西山梨に住む人々の多くは白村江の戦いで敗れた百済の血を引いている可能性が高いといえるだろう。

とはいえ、日本はそもそも黒髪、黄色人種が主流とはいえ、元をたどれば完全な移民混血の国。鎖国による錯覚が続いたのが難とはいえ、今になってそんなに気にすることもないんだろうけど。

東北の色白美人には完全に白人の血が流れているということで、ルーツを探ってみるといろいろ面白いことも見えてくる。
posted by さわ at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 山梨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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