2007年03月30日

第3次中東戦争

第2次中東戦争で力をつけたエジプト含むアラブ諸国家。

イスラエルは彼らに対して大きな恐怖を覚えていた。
そこへアラブ国家がイスラエル統一戦線を組んだ。

イスラエル「やられるまえに、やるしかねえ」


イスラエルはエジプトに対して突如攻撃を仕掛ける電撃戦を展開。ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、イェルサレム旧市街、ゴラン高原、シナイ半島をGetした。

これにより、ナセルの権威は失墜。
欧州と仲良くしていたサウジアラビアやクウェートなどの王権勢力が台頭し、OAPECを結成した。

民族主義の力も弱まり、パレスチナの解放はパレスチナ人自身で行われるべきだいう機運が高まった。

そして、アラファト指導体制のパレスチナ解放機構(PLO)が1968年に組織された。
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2007年03月29日

第2次中東戦争

第1次中東戦争の敗北によって、
アラブ諸国家はより強力な民族主義運動が必要だと悟る。

そんな折、エジプトではナセルを中心にして、欧州と手を組んだ王権勢力を排除することに成功していた。
ナセルは冷戦構造から影響を受けない、中立の立場を貫こうとしたが、アメリカはエジプトに対してMETOに入るように強要してきた。

ナセル・エジプト「我々は中立の国だ。バグダード条約機構に参加する国々から武器を買うつもりはない。チェコから買う。」

米国、英国「なんだと!そっちがその気なら、アスワン=ハイダムを作るお金の援助はやめさせてもらう。」

ナセル・エジプト「こっちは中立を貫きたいだけなのになぜそういう話になるんだ!」

米英「問答無用、いやならMETOに入れ。武器を買え。」

ナセル「じゃ、いいよ。スエズ運河会社をエジプトの国有にして資金は捻出するから。」

英、仏、イスラエル「??」
  「それじゃあ、うちらの石油が手に入りにくくなるじゃんか」

英、仏、イスラエル「米さん、エジプトむかつく。」
「やっちまいましょう」

こうして第2次中東戦争が始まった。

調停組織として機能するはずの国連はイギリスとフランスの拒否権発動のため機能せず。

アジア・アフリカはエジプトを支持。
国際世論は完全にエジプトよりとなる。
そうすると、米ソは英仏に武力行使をやめるように圧力をかける。

英仏は仕方なく戦争をやめる。

こうして戦争に勝利したエジプトのナセルは急激に評価を高めた。そして、アラブ諸国家による民族戦線も活気を帯びていった。

だが、ダムのお金をめぐる憎しみは消えず、エジプトは大企業の国有化を進め、ソ連へと近づいていく。

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2007年03月03日

第一次中東戦争

ドイツのヒットラーによるユダヤ人の虐殺、差別により、多くのユダヤ人たちがドイツを離れ、パレスチナの地へ流れ込んだ。

民族戦線に拍車がかかっていた当時のパレスチナ地域住民が彼らを受け入れるはずもなく、武力による弾圧が起ころうとしていた。

それまで統治権を発揮していたイギリスだったが、もはや、混乱は彼らの力でどうにかなるレベルではなく、国連に調整をゆだねることになる。

そして、国連はユダヤ人の国とアラブ人の国に分けて建国し、合同の聖地であるイエルサレムは国際的に中立な都市にすることにした。

こうしてユダヤ人とアメリカ、ソ連の働きかけによってイスラエル国家が樹立されたのだが、これをアラブ民族が容認するはずがなかった。

国連を中心とした強権発動に対して軍事行動で抵抗した。これがパレスチナ戦争(第一次中東戦争)である。戦争自体は国連の調停によって停戦を迎えるのだが、このときイスラエルはちゃっかり当初の分割案から1,5倍の領土を手に入れ、ヨルダンがヨルダン川西岸を、エジプトがガザ地区をそれぞれ自分の領土とした。

このように多くのアラブ人の土地が略奪される過程で、アラブ系のパレスチナ難民が数多く発生したが、彼らの救済は一切行われなかった。

ユダヤ難民を手厚く保護する一方でないがしろにされるパレスチナ難民。反米、反ソ、反ユダヤの思想は人々の心に強く刻み込まれ、中東の溝はさらに深まっていく。
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2007年03月02日

中東情勢1 イランの石油利権

イランのレジャー=シャーは西欧の国家と結びついた王権のひとつであった。しかし、大戦中にドイツと結んだことが災いし、ドイツの敵国であったイギリス、ソ連にそれぞれ南北から圧力をかけられ、失脚させられてしまう。

1941年、英ソはパフレヴィー2世を即位させた。

ところが、大戦が終わり、ワルシャワ条約機構とNATOによる冷戦状態に突入すると、ソ連支配下の北イランにてアゼルヴァイジャン、クルディスタンの革命地方政府が樹立される。これを受けたパフレヴィー2世はイギリスよりの政策をとりはじめる。

民族運動を進めていた人々はパフレヴィー2世が西欧の代表格であるイギリスと親しくしているのが我慢ならなかった。特に、イギリス系のアングロ=イラニアン石油会社がイランの石油利権を独占していることに耐えかねていたのである。

そこで民族戦線の代表モザデグは左翼勢力、イスラム系の勢力を取り込みながら、首相にまで上り詰め、ついにアングロ=イラニアン石油会社をイランの国有にすることに成功した。

だが、イギリスはしたたかに切り返す。
「だったら、イランの石油は国際市場から締め出すから。」
こうしてモザデグ率いたイランは簡単に経済破綻を迎え、
求心力の衰えたところをアメリカとイギリスの支援を受けたパフレヴィー2世によって叩き潰されたのである。

イランの石油利権は、イラン締め出しに協力したイギリス、アメリカ、オランダ、フランスの8大石油会社による国際石油財団が確保するに至った。

さらに55年には反共産主義の中核としてバグダード条約機構(METO)の結成に尽力し、50年代のイランはまさに米国と歩みを共にする国家であった。


posted by さわ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中東情勢 序

第2次世界大戦の影響で中東における西欧諸国の影響力が低下した結果、パレスチナ地方地中海東岸に位置するシリア、レバノン、ヨルダンが独立した。

影響力を低下させた西欧各国だったが、石油の利権だけはどうしても確保したかったので、独立国家の王権と仲良くしようと努力した。

だが、それまで西欧諸国に人為的に分割統治され、宗教、宗派、民族の対立にさらされていた人々の心は、民族のアイデンティティを確保する民族運動という形で現れ、さらに外国資本の排除や、外国と結びついた王権への攻撃へと傾いていく。

そこへ石油利権に興味を持つアメリカ、ソ連の介入、イスラエル国家の存在により、パレスチナ地方の情勢は泥沼と化していった。
posted by さわ at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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